NHKスペシャル「アフリカン・ドリーム」
第一回はルワンダ。ディアスポラ(離散者)を原動力に発展していこうという内容。虐殺があって外国に逃げていたエリート層が帰ってきて、彼らの力を使いという流れだったが、何かしら事業を起こそうとしても住民理解が難しいなどの問題があった。住民達の利益を独り占めするんじゃないかという疑念は不信に基づいているわけだから、これを払拭させるのは一朝一夕には出来ないんだろうな。いくら条件のいい話であっても、そこに信頼関係がなければ事業は立ち上がることすらできないんだなと思わせる。信頼が第一という発想は論語にもあるが、利益というのは決してコストとかではなく信頼から始まるんだろうな。
第二回は資源争奪の話。金・ダイヤ・銅。タンザニア・ボツワナ・ザンビアだったと思うが、その資源をどうやって利益に変えていくか。そこにある外資との関係性は。地域の労働力としての住民との関係はというような話。
小規模の採掘者がドバイの金相場で売り買いしていたり、掘るだけでなく精錬技術もそこにあるという意味で少し驚きだった。外資などの大規模な採掘企業との住み分けなどの話もあり、政策的に難しいところなのか。
ダイヤはダイヤモンドセンターを移させるなどの契約更改交渉から、そこから研磨技術者などの工場を作らせることで産業基盤を作ろうという政策がわかりやすく、これからの発展性がどうなるか非常に興味深いところではある。
銅はインドや中国企業などの外資企業で、ほとんど同じ仕事なのに給料格差が云々で不満が云々な話。まぁ良くある話。
どれも資源をどう扱っていくか。どのように国の利益にしていくかという意味で、必ず噴出するテーマが扱われていた。その国地域でその答えはいかようにもありそうだ。過渡期にこういった問題が必ず出るという感じを受けるが、それに対して万全の対策を打っているという話もあまり聞かない。ダイヤは一番上手く扱っているようには見えた。ただ、正解かどうかの話は20年くらいしないとわからないかな。
第三回は南アフリカの移民政策。隣のジンバブエが経済破綻していて、隣国同士における一人あたりのGDP格差が10倍以上と世界でも類を見ない。その差で移民を全面的に受け入れてさらなる経済発展の原動力にしようと言う話。
経済力でいえばアフリカ1らしいがまだまだ国として成熟していないと感じる。移民に関してでも受け入れるだけ受け入れて、野放しのような状態では治安も悪くなる。移民関係の犯罪の増加や住民の労働機会を奪うということでデモがあったりと、デメリットも大きく見える。人材の宝庫なんていう話もあるが、手順的には自分の国の国民の労働の質を目一杯上げたり、失業者がほとんど居ない状態の上での移民政策のはずが、必要以上の労働力が溢れかえる状態になっているのは、ジンバブエが隣という地域性故なのだろうか。
移民関連での犯罪など、今でもワールドカップにおいてでも犯罪に巻き込まれた報告を結構見るが、経済発展に重きを置いているせいで、治安維持などが二の次で信頼をなくすことになっていないか気になる。通常国内の景気がよければ犯罪は減っていくはずだが、それでも話題に上る治安の悪さをどう見ればよいのだろうか。犯罪のリスクが少なくとも先進国に比べて低いというのが前提にあるような気がする。捕まることが無いのか、つかまっても大したこと無いのか。たいした人生じゃないと投げているのか。根本的に地域的文化的な価値観からなのか。
一方で、ジンバブエという国を実質南アフリカの統治下に置こうとする、深謀遠慮があるんじゃないかと邪推したりもする。世代的に二周り。50年くらいしないと本当にそんなことがあるのかはわからないだろうが。
一部のアフリカがどんな感じか知れた。一方で格差について考えさせられる部分もあった。
格差社会という言葉がある。主に否定的な意味で。格差というものはどうしても生まれるものであると思うが、一方で格差が少ないとしたらどういうことがいえるだろうか。
イチローなどのスポーツ選手ではピンでは年数十億円を稼ぎ出し、下っ端は百万単位だ。あらゆる業界でそういったことはある。それ自体は天才と冠される様な個人差環境差があるしあって当たり前で、そういうヒーロー像が出来るほうがその業界への憧れや夢のようなものを作り上げる意味もあり好ましいと思う。ただ、そういった人たちが一握りで、他が全くお金を手に出来ないような状態だと問題があるように思う。それは個人差などの能力に起因するものなのか。それ以外の要因によるものなのか。
格差が無いということは、ほとんど個人差などが無いという意味で、平等主義、公平主義、共産主義とか全部まるっと内包しそうだが、つまるところ努力に対しての見返りがほとんど無い状態とも言える。常に走り続けても皆が同じ速度で走り続けていれば差はできない。皆が皆それを是とする思想ならばそれでいいのかもしれない。もしくは走り続けなければ死ぬしかないとか。でもそういう状態であっても走るのをやめる人は出てくるだろう。そういう人たちが増えるほど格差が大きくなる。格差は常に相対的ということか。
格差が出来ることは個人のインセンティブになる一面からも、生物の進化という意味でも、競争が是とされている今の状況では格差がなくなることは無いだろう。ただその格差の質の問題はあるのかもしれない。
上が伸びる分には問題ないとは思うが、下が深く広がるのが問題だとは思う。何故そう思うのだろうか。
走るのを辞めた時点でもうだめぽな状態ということは、生存競争過剰な状態といえる。自然淘汰ではなく社会現象の大部分は人工的。それすら自然現象とすれば自然なのかもしれないが、一種の人災と言い換えることができるのではないか。ジンバブエのそれは明らかに人災であり、格差の原因になった。格差社会の原因が人であるとすれば、それは本来管理しなくてはならないもののはずだ。管理できないならばそれは人の手に負えないモンスター。それを生み出した人間には相当の責任があるはず。まぁ確定しても責任の取りようもないんだろうけど。
もう一つ問題点は数的過剰の状態への慣れがあると思う。確かに戦争は数とは思うが、もともと数が足りないとき、あるだけの数の質を高めることを通常はしてきた。質の高まりによる競争は生存競争においてはそこまで問題にならない。質によるパイの奪い合いといっても、元の数が少なければ奪えるパイにも限度がある。格差が生じても死活問題までには発展しない。
が数が一定数増えると、質を高める努力より選別する努力に重きを置かれるようになる。低い質を上げるよりもともと質が高いやつを使うほうが楽といった回路が働く。
同じ年齢で能力が10と12のやつがいたら、よっぽどじゃない限り、どこまでいってもその差は埋まらない。トップレベルではその差が出るといってもいい。
となると、数が多い中から有望なやつを取ってきて、さらに勝手に良くなるやつを使えばいいので、指導とかよりかは環境を整える方向に変わっていく。使えないやつを使えるようにするという指導や教育は二の次となる。数を増やせばその分だけ基本的には有能なのが増える。数を増やすことが質にもつながる。結果数を増やしつづけ、数が過剰になることでパイの奪い合いになり、脱落することが死活問題に発展したりする。数を増やして質を高めるというのはある意味一番楽な考え方ではある。
一方で指導や教育による質の高め方は一番難しいともいえるし、効果がわからないしわかるまでに時間がかかるというのはある。効率が悪いと感じるものなのかもしれない。すぐに結果が出るものではなく投資的な意味あいが強い。凡人ですら世界チャンプにできる指導方法があれば誰しもが手に入れたがるはず。子供は全員天才になれる。今の状態は凡人をワンランクツーランク引き上げる教育方法は皆無ということの表れなのか。人間の限界ということなのか。結局個人に左右されるということなのか。
数の過剰からくる競争があることは人間の叡智の失敗、と捉える自分にとってはその状態がすでに負けであるから悔しくて仕方ないという思いがある。だからこそ格差社会が嫌なんだろうな。そしてその社会状態が悪い意味で働いているのを見ると、色々すべきことがあるんじゃないか。と感じるようになっている。問題があるということはこれから改善することが出来ると肯定的に捉えることもできるんだろうけど。