100年時代のやつ。
公的な介護度の判断と介護報酬も含めて作られるサービス付き高齢者住宅。サ高住について。介護度の選別などは国が作った仕組みの上で黒字を確保しようと思えば、そうなるわな。十分な黒字が出るようじゃないと企業としてはやっていけないはずだが、良心的であっても慢性的な赤字であれば、制度として無意味になるだろうな。従事者に負担を押し付けるだけで、姥捨て山と変わらなくなる。もちろん杜撰な経営では良くないが、経営努力を促すという意味でも、良いところを選別するという意味でも、そういった施設の格付け的なものが確かに必要になるだろうし、社会的なコストが減るように経営しているところが称賛されるような、そんな制度にしてほしい。施設毎に、こういう介護者に強いとか、そういう特色や個性が出てきつつも、制度としてきちんと成立する状態になれば、不安材料は小さくはなるんだろうな。
100歳時代ではその子供が70歳を超えるようになる。介護とは。ってなるな。
もう一つは終末医療について。これはもう年一とは言わずに、考えが更新されるたびに遺書的なものを作るなり、家族に言っておくことが重要か。生きているうちに死を思うのは、やはり難しいことだと感じる。死が身近にあったとしても、自らの死の際を想像することは少ないのではないか。医療、福祉従事者自身にそういう意識をする人が少ない。啓蒙する必要があるという現状からも、それは伺える。死を思いながら生きるというのは、生半可な事ではないし、現状の社会で明日死んでるかもと思って仕事とかはできないしな。明日も生きているという前提。なんなら1年後・10年後も生きていると思って、日々生きることが普通のような気もする。
85歳以上になると痴呆率が一気にあがる。IPS細胞研究でアルツハイマー治療に関するニュースが最近あったが、それが一般にどれだけ早く降りてくるかはわからない以上、楽観視はできない。そういうものとして考えるべきか。
一旦人工呼吸器などを入れてしまうと、退院できるようになるのは200人に1人。宝くじも当たらないやつは無理。
透析などをしているうちに認知症が進んでしまうケースも。頭が大丈夫なうちに自らの終末医療
について考えなくてはならないと感じる。
ただ、残された当事者になった時、とりあえず救急車は呼んでしまうよな。救急の人たちだってそれが仕事だからな。その人の人生にとって不要であるかもしれないが、延命させるのがお仕事であって、一番命に向き合っている彼らは悪くないのに、葛藤していると思うと、いづれお世話になるであろう身としては、きちんと身ぎれいにしておかなくてはな。
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