よく、セキにおける地の問題とか、中国ルールとは目的が根本的に違うとか言われちゃったりするんだけど、基本的に地の概念をどうとらえるかでしかなくて、純碁ではないルールである時点でどちらも大差がないのだけれど、日本ルールにおいて切り賃がなくなった理由を何となく思いついたのでそれを元につらつらと書いてみる。
日本ルールの良さはその整地処理の簡単さにある。実際プロの整地を見てるとわかるが、二眼とか関係なく石を敷き詰めている。地を数えやすくする工夫もなされるし、地の多寡を明確化する点で優れている。少なくとも中国ルールは見ててよくわからん。
その代わりに終局処理や死活処理に関しては多少の問題をはらんでいたりはする。セキの地の問題もそうだし、コウ絡みはどのルールでも悩みの種だとは思うが、これはこう。と理屈を一足飛びで決めちゃっている部分もあるのが拍車をかけているとは思う。
で、この整地において、その石が二眼がどうかとかは整地時点では関係がなくなっている。石の死活確認は終わっているのだから当たり前ではあるが、碁によっては盤上全てが石で埋まる事すらある。そしてそれは石埋め碁としては一番単純な形になっているとも言える。独立した活きた石の二眼を最後まで残す方が美しくない。という理由もあったりするかもしれないが、最終的に石を埋めるという作業の中での石の多寡を目的にするならば、この時点で切り賃は不要とも言えるからだ。終局後の石は取れないのだから、二眼部分を残しておく必要もない。この理屈でいくとそれはそのまま「地」の多寡が勝敗になるという事でもある。終局と整地を分けた時点で切り賃なしは成立しえる。
そういった意味でメーエン九段の推奨する「二眼を残す」純碁との違いは石を埋めるタイミングの違い。石を埋めるのが「終局まで」なのか「終局後から」なのかの違いと言える。現日本ルール上で行われている整地作業は石を埋めずにそれを盤上で示す作業と捉えることができる。
この場合の「地」の概念で考えると、セキの地問題は、「空点をどうするのか」という問題に行きつく。
通常終局後に残る空点は「地」か「セキ駄目」のみになる。現ルール通りで普通に整地する分にはセキの部分の空点を埋めたりはしないので、元々「地」扱いになっていないが、交互に石を埋めるという処理で地の多寡を測る整地をするならば、セキ駄目はどう処理すべきなのだろうか。
┌●○┬○●┬┬┬
●┼○伊○●┼┼┼
○○○○●●┼┼┼
●●●●●┼┼┼┼
├┼┼┼┼┼┼┼┼
上図の場合はセキ駄目が4つなので、どちらから埋める作業が始まっても2-2で損も得もない。
が、先に「伊」と埋めてしまっている場合は、空点が3つなので、どちらが先に埋めるかで損得が生じてしまう。プロの技でも運の要素と言えるかもしれない。まぁこれを許容できるならばそれもアリだろうが、セキという概念において、日本ルールはそれを是としなかった考え方と言える。
中国ルールでは整地前に「伊」に埋めたほうが明らかに得と言えるわけで、中国ルールはセキにおいては形によって明らかな損得があるルールとなっている。日本ルールとはその点において明確に違っている。中国ルールは駄目も含めた半コウのもっていき方もあるしな。
つまるところ、このセキ形というのは「地」を石を埋める処理で表現しようとすると、セキ部分の空点を「折半する対象」にしないと、ゲームとしては扱いが難しくなる。性質的には両コウとかと同じものとした方が納得しやすいかもしれない。頻度に雲泥の差があるから感覚的には違和感を覚えるかもしれないが、ゲーム運用上の処理の簡単さを優先しているとも言える。両コウもやろうと思えば3コウ以上も無勝負を介さずに処理できるわけだし、どこまでに線を引くかというのは、人間の能力に対する妥協とも考え方、価値観の違いともいえるのだろうが、日本ルールの「セキ」という状態は、「地」処理においては例外処理なのだと捉えるのが正しいのかもしれない。
それ故に「地」とは。みたいな概念をルール上に取り入れているし、その上でセキは地に数えないと規定している。と言えるのではないかなと。
ルールの違いで差異が出てしまうのは当然ではあるが、どちらが良いとかの善悪があるというものではなく、100m走で足が100mラインを超えた時のタイムなのか、胸が超えた時のタイムなのか。みたいな違いだと思う。競技の根本的にはほぼ変わらない。
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